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サー・チャールズ・ノートン・エッジカム・エリオット (Sir Charles Norton Edgecumbe Eliot、 枢密顧問官、GCMG、1862年1月8日 - 1931年3月16日) は、イギリスの外交官、植民地行政官、学者である。 == 生涯 == オックスフォードシャーのバンベリー近郊のシブフォード・ガワー村で生まれ、パブリックスクールのチェルトナム・カレッジで学び、1880年にオックスフォード大学ベリオール・カレッジへ進んだ。在学中に古典語学で最優等の成績を収め、20もの言語を習得するなど、優れた語学の才能を発揮した。1886年にオックスフォード大学を卒業後、外交官の道を選択すると、優秀な言語学者としてサンクトペテルブルク、タンジール、イスタンブール、ワシントンへと赴任した。1900年にナイトの爵位を授与され、東アフリカ保護国弁務官に任命された。 エリオットはこの東アフリカでの任務が生涯でもっとも幸せな時期であったと述べているが、イギリス本国の意向に反してマサイ族の領地で白人入植地の拡大を推し進め、1904年に外務省と対立し官を辞した。1905年から1912年までシェフィールド大学で学長の地位にあり、さらに1912年から1918年まで香港大学で学長を務めた。1918年に帝政ロシアが崩壊し、連合国によるシベリア出兵が起きると、香港にいたエリオットに声がかかり弁務官としてシベリアへ赴任した。 1919年にシベリアでの功績が評価され駐日大使に任命され、1920年4月6日に来日。エリオットは日英同盟の支持者であったが、第一次世界大戦終結によってイギリスへのロシアとドイツの脅威がなくなり、アジアへの日本の侵略を危惧するアメリカ合衆国の思惑によって、1922年のワシントン会議で四カ国条約が締結される代わりに日英同盟が破棄される。同盟の終了後も日英友好に努め、1923年に関東大震災が起きるとイギリス政府に援助を働きかけ、東京帝国大学図書館復興への援助金を拠出させている。しかし、エリオットの努力もむなしく、が建設されるなど日英関係は悪化を辿り、対米関係を重視するイギリス本国との意見の隔たりは大きく、1926年に外務大臣オースティン・チェンバレンによって再び外交官の職から退けられてしまう。 退職後も帰国せず日本に留まり続け、奈良に滞在し日本仏教の研究を行った。健康の悪化により帰国を決意するも、1931年3月16日に帰国の船上、マラッカ海峡で死去した。研究の成果"Japanese Buddhism"(日本仏教)は、元部下であったジョージ・サンソムによって未完の部分が補筆され、死後の1935年に刊行された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「チャールズ・エリオット (外交官)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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